2011年1月18日火曜日

混乱した青春ー3

我が町には中学校と工業学校があった。其の工業学校には専門の工業ばかりではなく商科、農科があった。小学校の友達がその商科に入った。秋のある日其の学校に展覧会があった。友達が誘ってくれたので、一緒に見に行った。広い体育館に色々な工作品や機械類が所狭しと並んでいた。一番興味を持ったのがあった。それは天井に張り付いたように何かで留めてあったのだろう、飛行機の分解した姿であった。羽根二枚は重ね銅体は横に結び付けている様に見えた。飛んだかどうかはきかなかったが、其の学校の生徒が作り組み立てした立派な飛行機だそうだ。此の学校で飛行機を作る高度な技術があり、其れを生徒が学び実際に実行に移した事に驚くばかりか感激であった。
それから幾日も経たぬある日だった。我が中学の生徒が此の工業学校の生徒と小さな事で摩擦が起きた。其のあくる日両方の生徒達が仕返しの為集まった、片方は受身かどうかは知らない。
10キロぐらい離れた隣町外れに川幅百メートルちかくの川がある。その川原に両方の生徒20人余が100メートル間隔で対峙した。竹やり、棒切れ日本刀まで持ち出した奴もあったそうだ。何時分か睨み合っていたが今にも突撃しそうになった。その時噂を聞きつけ村の消防団員十数人が中に走りこみ仲裁の形をとって幕が降りたそうだ。
それに加わった生徒は皆謹慎を命じられた。僕が住んでいる集落の先輩が其の中に居た、その人も日頃血気盛んな人だった。喧嘩も強かった時々僕も殴られた。今度の事件で学校内では英雄になった。その英雄は元の学校にいては、先生からは別視され先々に支障がきたすと転校して行った。
いつも学校に行くのに誘って呉れていたのが居なくなって寂しくなった。

2011年1月17日月曜日

混乱した青春-2

県立中学校は郡内に一校という形で配置されていたので、多くの町や村の小学校から集まってきた、必然多彩な学友が出来小学校のときより多くの同学年友が出来た。一組50-60人で5組あった。学力成績も僕らの場合275人中何番、と言うはっきりした位置が示された。心を打ち明けて話せる相手は自分の成績近くの者を選ぶ、遠くの寒村の者がいたり僕が住んでる町よりうんと賑やかな都市の者もいた。魚釣りには遠くの山の友人と出かけ、都市に行っては喫茶店に連れて行って貰いこっそり映画館に入ったりした。当時子供は映画館や喫茶店などは入って成らなかった。都市の者は矢張り僕らよりうんと増せていた、店に入ると自分が欲しい者を平気でポケットに入れる万引きである。店の人も小額な物は見逃すそうだ。ある日、本屋に入った友達は一生懸命漫画に夢中であった。僕は戦争の写真が何枚か載った薄い雑誌が目に付いた。パラぱらっとめくって見て欲しくなった、払うような金は持って無かった。解らぬように懐にいれそっと友達の横に行き、欲しいがどうしようと言った。友達は平気な顔でそのまま持って帰れと言う。また彼も漫画の本を懐に入れていた。友人は堂々と胸を張ってゆく、僕はドキドキしながら彼の後について入り口を出た。誰にも詮索されず旨く行ったホクソ笑んで友人と顔を見合わせた。そして50メートルぐらい歩いた処で見知らぬおじさんに手を捕まれた。ハットして何をすると言って手を引き抜こうとしたが、力強い向うの腕にはかなわなかった。友人はサット走りかけたその時別の人が捕まえた。二人は本屋に引き戻され二階の事務所らしい一室に連れ込まれた。二人とも懐から本を取り上げられた。ビンタが飛んできた何発か済んだ処で、中学校の名、住所氏名電話は無かったので無いと答えた。それから二人に向かって不届きな事をする出ないと暫らく説教された。明日学校に届けると言った。此れには友人が慌てた、それだけしないでくれと哀願した。それでは親に来てもらう良いかと言って友人の家に電話した。30分ぐらいしたら親が来た。友人の親は平身低頭して謝り続けた。そして僕らの頭も押さえ謝りなさいと強くいった。本屋の人が友人の親に子供にこういう事を絶対しないよう強く言い聞かせて下さいと言って無事開放された。

混乱した青春ー1

新しい学生服は国防色の広い襟であった、それにゲートルを巻いて通学するのだ。始めはゲートルの巻き方が解らず大変苦労したものであった。入学して2学期に入ってすぐだった、陸軍幼年学校入学試験に応募の張り紙が出た。平均点75以上とあった、かろうじて受ける資格がある。職員室に行って担任の先生に受験したいと相談した。受験するのは君の覚悟次第だ、然し君の元気は人一倍だが体格が痩せ気味だ、今から運動して食事の好き嫌いをなくし努力すればまだ何とか成るだろう。何とも頼りない返事であった。受験用紙を渡され書き込む要領を説明され両親の承諾印を押してくるように言われた。家に帰り用紙に書き込み、軍人に成りたい幼年学校に受験すると言って書いた用紙を母に見せた。其の晩父は僕に向かって良くぞ決心した、と言って初めて僕を褒めてくれた、父は承諾印を喜んで押してくれた。試験場はたしか久留米市であったと思う、其の日は父がわざわざ連れて行った。後にも先にも父の愛情溢れる行為はただ此の一日であった。試験の内容は割合に易しかった、ただ歴史の問題が殆ど駄目に近かった。後三条天皇の御実績をかけでは全く知らなかった。過去にこういう事があったのを思い出した。陸軍士官学校の試験にやはり天皇のご実績の問題が出た。ある学生が其の問題を知っていたのか知らなかったのか、天皇の御実績を書くのは恐れ多い事ですと答えに書いたそうだ、そしたら試験は満点をもらい無事合格したと言う。僕もそう書こうかと一瞬脳裏に走ったが、他の問題が解けて居ないのにそれだけ尤もらしいのでは変になるので何も書かずにいた。試験の結果発表はなく採用者は家に通知すると言う事だった。待てど暮らせど何の音沙汰もなかった。近所の噂で僕と一緒に受験した友達の家に憲兵が来て色々調査して言ったそうだ。近所の評判も聞いて歩いたとか言っていた。そして解った友達は合格したのだ、熊本の陸軍幼年学校に入校する事になった。一年生の合格者は彼一人であった。残念で堪らなかった。来年も出来る事だ一生懸命に頑張る事を決意して来年を待つ事にした。

2011年1月16日日曜日

悲惨な家庭-22

正月も過ぎいよいよ中学の入学試験が近づいた、今まで筆記試験があったが今年から口頭試験だけになったそうだ。筆記試験の代わり内申書が行くらしいと、子供達の間で盛んに言いふらされていた。その内申書に手心を加えて貰おうと、誰それの親はこっそり先生と会っているなどと陰口を言い合っている子供達もいた。小学校の卒業が近くなった頃中学の入学試験の日がやって来た、先生が言われていたような質問ばかりだった。最後に日本は米英連合国に何故宣戦布告をしたかを聞かれた。日本の必要な物資ガソリンや鉱物資源などの輸入輸送停止線などを引き、妨害を始めたからだと答えた。後は先生から教わっていた事を言って無事終わった。発表の日従兄弟を連れて中学校の体育館に入った。僕は内申書に不安があった、行儀の欄がクラスで最も悪かっただろう。発表の当選番号を見るのが怖かった、下を向いていると従兄弟が頓狂な声を上げ数字が付いていると何度も繰り返し僕を促し指を刺して確認をさせた。確かに番号は有ったじわじわと胸に喜びの実感が湧いて来た、つい万歳を叫んだ周囲の者もそれに吊られてかどっと歓声を上げた。今日から中学生になったぞ勉強に励んで軍人になる事を新たに決意した。兄は東京の技術学校に入ったそうだ、4月から東京に友人を尋ね下宿をして学校に通うそうだ。中学に入学と同時に兄も居なくなる暴力も無くなってしまう、二重の喜びに飛び上がって喜んだ。母も久しぶりに笑顔をみせ父も同席で祝いの赤飯が飯台に上がり、兄と二人の進学を祝ってくれた。その光景は悲惨な家庭の幸いの一瞬の真似事であった。

悲惨な家庭ー21

夏休みも終り学校に通い始めた、所が学校の様子が以前と違っていた。先生達の洋服が軍服みたいに国防色になっていた。子供ながら国際情勢が差し迫っている事を感じた。集落でも何人かが召集された。青年になったばかりの若い人が大勢の人に熱烈なお祝いを受け、歓呼の声に日の丸旗の波を背に勇ましく出征して行った。その姿は子供の胸に大きい感銘を与えた。此の頃からであった、大きくなったら軍人になりたいと強く思い出した。もうすぐ冬休みが始まる寒い朝だった、日本は本日早朝米英他の連合国に宣戦を布告した、そして日本の艦載機が真珠湾の敵艦隊に攻撃を開始何隻もの敵艦を撃沈大戦果をあげたと、朝礼の時に校長先生が訓示した。いよいよ世界を相手に戦争を始めたのだ、大本営発表は連日の様に大勝利のニュースを新聞やラジオで大々的に流していた。子供なが、ら胸が高鳴り感極まり万歳をする程であった。全身に力が湧いてきた兄の暴力など何のその、これからはそう簡単にやられるばかりでは無いぞと張りきった。友達の間でも勝った勝ったの大騒ぎであった。家に帰って姉達を相手に日本は世界を相手に勝ちまくっていると、自分が勝っている様に騒ぎ立てた。兄が聞きつけて馬鹿野郎騒ぎ立てるなと怒鳴った。僕はその時気が立っていたのだ、興奮して兄を睨み付けた今までになかった勇気である。兄は僕の顔を見て何生意気なとビンタを張る手を上げた、僕は必死になって其の手を払い除けた。今迄に無かった勇気が湧いたのだ。兄はチョットたじろいたが、すぐ僕を引き寄せ首を絞め始めた。苦しくなった、体が参る前に何とかせねばをならない咄嗟に考えた。首に巻きついいた兄の腕の上膊部が目の前にあった。ヨシッとばかりに渾身に力を込めて其の上膊部に爪を立て肉に食い込めと握り込んだ。痛い何をするかと絞めている腕を引き抜こうとした、その腕にぶりさがった。兄はもう一方の手で殴ったり足で蹴ったりしたが離さなかった。流石に疲れたもう限界である投げ捨てるように突き放した。兄は余程痛かったのか腕を手で庇い乍後で見ていろとか何とか喚いて立ち去った。その後暴力は殆ど無くなったが時々ビンタを張ろうとすると僕が俄然と向き直り睨み付けるので手を引込め暴力は無くなった。

2011年1月15日土曜日

悲惨な家庭ー20

医療箱を探し箱を開けるが此れと言った薬は無i。ヨード液があったのでそれをたっぷり両甲の上に垂らした。しみる痛さが酷かったが焼かれるよりましだった。真っ赤に爛れた肉がむき出しになっていた。軟膏があったのでそれを塗りガーゼを当てた。包帯はなかった箪笥の引き出しにあった仕立て残りの白い布切れを幾筋にも裂いて包帯代わりにして巻いた。両足の事とて歩くのに大変困った。母達が帰ってきた。足を見てどうしたのかとしっこく聞いた、曖昧な事を言って誤魔化した。母は何時もの悪戯でのかすり傷ぐらいに思ったのであろう。あまり詮索はしなかった、歩くのに我慢して痛くないように見せかけるのに苦労した。女中も帰ってきた、また悪戯したのかと思ったのだろう嫌な顔して僕を見た。此のやろうお前のためにこんな目に遭ったのだぞと、大声で叫びたかった。また傷の治療の付け替えに苦労した。誰も居ない時を見計らってこっそり治療した。ガーゼが肉にこびり付いている離す時は飛び上がる程痛かった。女中はそれをこっそり見ていたのか、次からは親切に手伝ってくれた。傷跡を見てこんなに酷かったのかと、親に相談して病院に連れて行って貰いなさいと言った。僕は其れは絶対に出来ない、解らない様にこっそり手伝ってくれと懇願した。其の時女中は家の中の奇妙な関係に気づいたのであった。其れからは女中の態度が急に変わり僕にそれくれとなく兄に感ずかれぬように親切に振舞って呉れた。一週間ぐらいで包帯は要らなくなった、しかしむき出しにしていれば傷の酷さが解る。ガーゼを当ててテープで止めた。瘡蓋が出来て暫らく立った、剥がれそうになったのでゆっくりと剥がした。ちょっと血が出たが、つるつるした光った皮膚が現れた。其の頃から兄を憎みだした、其の憎しみは今迄の暴力に対する仕返しを考えるようになった、大きくなったら殺してやろうと思った。そして今度暴力を振るう事があったら絶対に対抗するぞ、殺されるかも知れなくても抵抗する事を心に誓った。6年生になった兄は上級学校の受験の準備の勉強に余念が無かった。暴力を振る事は少なく無くなった。

悲惨な家庭ー19

今度来た女中は兄を好いて居る様に見えた。兄の暴力は少なくなったがビンタは時々飛んできた。女中はそれを見て兄さんの言う事を聞いて悪戯は止めなさいと、その度僕に言い聞かせるのだった。其の日は何も悪い事はしていないのに、学校から帰ってカバンを投げ出すなとビンタが飛んだ。何時も投げ出していたがビンタなどなかった。今日に限ってビンタをするのは女中が何かを告げ口したと思った、女中に其の事を言いお前は兄さんを好きなのかと詰った。彼女は途端に真っ赤になり馬鹿と言って泣き出した。兄は其れを見て僕を睨み付けた、恐ろしい顔だった。其の日は何事も無く終わった。其のあくる日は休みで彼女は実家に帰り、母と姉達は親戚を尋ね家には兄と二人になっていた。僕は窯の残り火でサツマイモを焼いて食べていた。芋の匂いを嗅ぎつけたのか兄がやって来た。俺の芋はあるかと言った、ないと言うと焼けと言う、サツマイモを二つ窯の中に入れた。薪をいれ火をつけた。炎が辺りを暖めた、寒い日だったので体が温まった。兄が口を開いた、昨日女中さんに何を言ったのかと怖い顔して聞いた。何も気に障ることは言わなかったと言ったが、嘘を言うなとしっこく問い詰めた。黙っていると突然足を前に出せと言う、何をするのかと恐る恐る前に差し出した。足の甲に残り火の炭を置いた。熱かったのと吃驚したのに瞬時足をに引込めた。 なにをするじっとして居るのだ、ビンタが飛んで火箸で頭をビシャと叩かれた。ビンタはあまり堪えなかったが、頭にきた火箸は以前金棒で痛めた額を叩いた、頭蓋骨にヒビが入った様なショックが走った。言う事を聞かなかったら、火箸が目に突き刺さるかと思った。目を閉じじっとしていた、いきなり強烈な熱さが足の甲を走った。涙がボロボロ出たそれでも耐えた、何十秒か過ぎただろう足は麻痺したのか熱さは弱くなくなった。そっと足の甲を見ると炭は黒くなりかけ白い煙が立っていた。涙がとめどなく流れ泣いていると別の方をだせといった、観念して差し出した。強烈な熱さだ目を閉じてじっと耐えた。兄は窯の中から芋を取り出し新聞紙に包んで去っていった。やっと仕置きから開放されたが両足の痛みは酷く地面を這って居間に這い上がるのがやっとだった。

2011年1月14日金曜日

悲惨な家庭ー18

5年生になった頃から兄の暴力が少なくなった。学校に行くのも家にいることも楽しかった。兄は中学4年生で来年の上級学校の受験勉強をしている様だった。僕はなるだけ勉強室に行かず兄の邪魔を控えていた。裏の友達の家に行くのが楽しくて毎日の様に行っていた。姉さんと何時も一緒に居たわけではない。ただ顔を見て微笑みを交わすだけで楽しかった。偶に家族が留守にした時は大変可愛がって呉れた。然し後で解った事だが僕の体はまだ未熟であった様だ。本当の快楽、快感ではなかったのである。然し其の当時は女がしてくれる事が心地よい最高の気分だと思っていた。学校から帰ると早速裏の友達の家にすっ飛んで行く。友達はすぐに出てきて一緒に遊びだした。所が今日は家の様子が何だかざわざわして、大勢の人がウロウロしていた。何事かと友達に尋ねると、姉さんの婿さんが帰ってくると言った。皆でお祝いをするそうだ、その用意をしているのだろう。姉さんは僕を見たので、ビー玉で遊んでいる所にやって来た。私のお婿さんが満州に行っていたけど、除隊になって帰ってくるのよ明後日乗ってくる船が佐世保に着く迎えに行くのよと嬉しそうに言った。向うの家に行ったら中々此方へは来れないが、お祭りとか色んな休みの日には必ず帰って来るからね、と言ってにっこりして頭を撫でて呉れた。僕は何だか寂しくなって、顔を彼女の胸に埋めた。近くに居た人達は微笑ましい事だと思って居るのだろう、皆優しく笑っていた。夏休みが始まった、今年はすっかり仲良しになった裏の友達と遊ぶ事にした。友達のすぐ上の姉さんは僕より三つぐらい年上だった。此の姉さんも大変奇麗な人で母が勤めている女学校ではなく柳川に近い女学校に通っていた。僕に対しては親しい態度はしても親密な関係には成らなかった。友達と遊ぶときに仲間になって遊んでくれる事は何時もで有った。此の友達関係が幼い本当の姿だと思った、素直な気持ちが湧いて此の友達が本当の親友なのだと思い知らされた。家には新しい女中さんが働に来ていた。此の人は家事見習いの人みたいでだった。

2011年1月13日木曜日

悲惨な家庭ー17

田舎は稲刈りが始まり忙しい日がやってきた、女中さんは実家の手伝いに帰ってしまった。今まで毎日女と横になって居た訳ではない、女も家の者に疑われるのを極力避けていた。それでチョットした隙に手を握り悩ましい小さな悪戯をするしか無かった。これからそれも出来ない女の居ない侘しい毎日が始まるのかと思うと、悲しくなって仕舞うのだった。家にいてはつまらない、悪童達との遊びには暫らく遠ざかっていた、裏庭の藪の向こう側に悪童ではないおとなしい一つ年下の友達が居た、その姉さんは奇麗な人だった。二人居た上の姉さんは嫁に行っていたが、婿さんに赤紙が来て戦地にいったそうだ。まだ子供も出来ていなかったので、実家に帰って彼の帰りを待っているという事であった。其の家に馬が居た大きな馬だった、馬小屋の横は藁を積みあげた大きな倉庫だった。その積み上げた藁束の間に子供が入れる隙間があった。其の隙間に友達と入って二人で黙って座って居るのが何となく楽しかった。上の姉さんがおやつと言ってお菓子等もって来たりした。そんな時僕に微笑み掛ける目がとても眩しかった。今日も藁小屋で遊ぼうと訪ねて行った、弟と妹は従兄弟と魚釣りに行った、暫らくしたら帰ってくる待っていたらと言った。外は風が強いから中に入れと言う、彼女は二階の部屋で縫い物をしていた。階段の上から僕に上がって来いと言った。お母さん
が下の居間にいた居た、アラ上がったらいいじゃないと言って進めてくれた。僕は何だか悪い様な気がしたが、恐る恐る階段を上って彼女の部屋に入った。彼女は戸を閉めゆっくりしたらと僕の手をとって座布団に座らせた。じっと座っていると足に痺れか来た、其れを訴えるとそれでは横になったらと言って寝かして呉れた。アラ枕が要るわねと言って辺りを見ていたが、何も無いわ此処に頭を置いて寝ろと言って膝枕をさせた。何だか奇妙だった、まさかと思ったが悪戯盛りの子供のする事だと許して呉れると勝手に思った。勇気を出して崩れた膝の隙間にそっと手を入れた、彼女は何とも言わなかった。もっと入れようとしたら膝が開いて奥に届いた。もう興奮してどうして良いか解らなく成ってしまった。彼女は横になって僕を抱きしめた。もう彼女のするままにした。

2011年1月12日水曜日

悲惨な家庭ー16

頭の中ではつまらぬ女好きの汚名には、お別れしたいと何時も思っていた。然し何とも我慢出来ない事が度々起こる。其のつど頭にモヤモヤが沸き起こった、其のモヤモヤについ興奮させられて仕舞うのだ。其の性根の弱さが血流という事なのかも知れない。我が家は母が勤めている女学校を卒業した娘さんさんが、嫁入り前に家事諸般の見習い女中として半年ー1年と寝泊りで働いて呉れる。中には女学校には行っていない田舎の娘さんもいた。その娘はあまり器量は良くなかったが、僕の何が気に入ったのかとても親切であった。洗濯物はわざわざ自分の手でズボンを脱がせ、パンツにまで手を掛けてくれるのだ。もう4年生だ恥ずかしいパンツは僕が脱ぐといっても聞かなかった。ちょっと妙な気分になっていた。其の日は兄姉達はまだ帰って来るのに時間が有った。便所に行きたくなって行こうとすると女が付いて来る、何で来るんだと言うとあんたは何時も下着を汚す 汚さないように手伝ってやるという。其の時サット頭によぎった、この女男好きなんだなと。また女も僕の女好きを感じていたのであろう。モヤモヤが頭に登ってきた、お座敷の奥にある便所は広く手洗う所も奇麗で小さな腰掛まで置いてあった。ズボンを下ろしパンツは女が下まで引きずり降ろした。僕はもう知っていたので女がするに任せた。カチカチ山になっている小さなお地蔵さんを女はなでまわし、息遣いまで荒くなっている。便所の中だ横になるわけにはいかない、便器に向かっていた体を女の前に向き直りしっかりと女を抱きしめた。小さな手でスカートをめくり手を差し入れ先生に習った処方を実行した。女は仰け反りになって低い声で何かを叫び、抱きついている僕と一緒に倒れてしまった。女は横になったまま僕を抱き締めながら、あんたはオマセな子だねといって口付けをした。家の人に知れると大変な事になるから、決して誰にも話さないようにと強く言った。そんなことぐらい解りきったことだとチョット怒った様にして言った。女は安心したのか前より強く抱きしめ僕の手を股に挟みしっかり絞め上げた。僕は倒れたショックに興奮が冷めて仕舞っていたのか拳が痛かった。

2011年1月11日火曜日

悲惨な家庭ー15

私の先生が去ったあと悶々として学校に行くのが辛かった。大人達が良く話す失恋とはこんな心に成る事だと、幼い私の心にも恋の傷跡をのこした。しかし考え直す事もあった。先生にした行為がいやに厭らしく感じだした、今頃先生は僕を軽蔑しているに違いないきっと嫌いになっているだろう。そう思うと自分が汚らわしい醜い人間に見えて堪らなく恥ずかしかった。然し生まれた時からこんな人間ではなかった筈だ。この女好きの男になった発端が小学一年生の夏休みにあった。母の実家に遊びに行ったある晩の事である。田舎の事とて映画館など無い、其の日は祭りの前祝に神社の境内で映画会があった。はっきり覚えてないが少女と青年との恋物語だった。始まったのが暗くなってから、終わった時はもう真夜中であった。眠くなり境内に敷き詰めていた莚の上でうつらうつらとしていた。ハット目を開くと家の店に働いている事務員さんであった。終わったよ帰ろうと言って僕を起こしていた。眠くて仕方が無いと言ったら、おんぶしてあげるから肩に両手を掛けろと言う。甘えて其の儘おんぶされ帰りに付いた。途中ずれ落ちそうになるのを上の方にしゃくり上げる、其の度僕の手が彼女の胸の辺りをさわる、なんとも心地よい感触だった。其の内彼女の浴衣の胸が開けしゃくり上げた時手が滑る込んだ、しまったと思ったが事務員さんは知らん顔をしていた。僕の小さい局部はカチカチに成っていた、事務員さんの指がそれに絡まっていた。彼女は時々しゃがみこんでなるべくゆっくりと歩き皆と距離をはずしていた。僕は此れがいつまでも続けばいいと思った。やっと家に着いた。恥ずかしくなって走って従兄弟の部屋え行って寝た。あくる朝事務員さんは来ていた、僕が事務所に入ろうとしたら此処は子供の来るところではないと言って追い払われた。毎日入ろうとするとまた追い払われた。

2011年1月10日月曜日

悲惨な家庭ー14

学校に行って勉強するのはあまり好きではなかった。親から強いられて仕方なし学校に通っていたのだ。しかし4年生になって家庭科の授業が始まり、学校に行くのが楽しくてたまらなくなった。あの奇麗な先生が居るからだ。何時も小部屋に行くわけではない、先生の顔を見るだけで楽しかった。あまり付き纏うと嫌われるのは、子供ながら感じ取っていた。先生は何時も目で合図をし目で話しかけてきた。此の頃である目でものを言う事を覚えた。遠くに居ても其の人の感情を理解する事が出来た快感に驚喜して喜んだのである。其の日も授業が終わって皆が挨拶を済ました時だった、来ても良いよと合図している様に見えた。間違っていたら恥ずかしいなと思いながらも、そっと裁縫室を覗いた。先生は机で一生懸命何かをしていた、間違ったなと思いそっと教室を後にしようとした。突然後ろでガラッと戸を開ける音がした。先生の微笑んだ顔があった。。もう胸は高鳴るばかり小部屋に走るようにして入った。先生も素早く入って来た何時もの様に添い寝をし胸を開いた。片方を唇にあてもう一方を手で揉むのだった。先生は僕の手を硬く握り締めそっと下の方に持って行くのだ。先生が欲しがっている事は知っていた。局部のクリクリした所を小さな指で揉むのだ。僅かな時間だったが小声で何かを叫んでぐったりなった。見繕いして立ち上がるかと思ったら、もっと一緒に居てと言った。嬉しくて嬉しくて感極まり先生の胸にうずくまり小さな腕を思いっきり伸ばし強く抱き絞めた。暫らくして暫らくと言っても10分間も無かっただろう。小部屋を後にして教室を出たら、人にバッタリ出会った。3年生の時机の下に潜りパンツの色を見ようとしたあの奇麗な先生だった。此処で何してたのと怪訝な面持ちで詰問した、何でもありませんと素早く立ち去った。それから暫らくして先生の姿が見えなくなった。転校したそうだ何故かの理由は解らなかった。

悲惨な家庭ー13

寒い冬が過ぎ去り暖かい春が訪れた、桜の花がささやき掛けると新学期が始まった4年生になったのだ。新しく家庭科という授業が加わった、其の先生は小柄の奇麗な人だった。僕の顔を見てニッコリとした、僕はドキッとして胸が高鳴るのを感じた。然しつまらぬ事を考えてはいけないと、僕自身に強く言い聞かせていた。それでも先生の投げかける笑顔が気になって仕方が無かった。今日も其の家庭科の授業が始まっていた。先生は教壇から色々と食べ物の話をしていた、其の時間の合い間合い間に先生は微笑んでいた、其の笑みは僕に対してである事は直勘で解っていた。女好きの僕の様な男が居るのと同じく女にも男好きが居るのである。下品な言い方では助平ーと言う。母が僕を罵倒する時に何時も此の言葉を投げかける。それでか此の言葉には卑屈感が付きまとっていた。僕は此の言葉が大嫌いだ、それで同じ意味でも女好きとか男好きと呼ぶのである。ようやく授業が終り皆が直立して有難う御座いましたと挨拶した最後の瞬間、先生の輝いた目が僕に向かって閃光にように輝いた。僕は興奮して胸の高鳴りを覚えた。最後の授業時間が終り皆帰り始めた、期待は裏切られるかも知れないと思いながらも、裁縫室にそっと覗きに行った。先生は机に向かっていたが、僕を見るなり手招きして入って来いと合図した。矢張り先生は待っていたのだ。裁縫室は教壇の後ろに小道具をしまう狭い小部屋があった、先生は僕の手をしっかり握り絞め小部屋に連れ込んだ。今度はしっかり抱きしめ倒れる様に横になった。僕は戸惑って何も出来なかったが、先生は僕の体をさわって愛撫し胸のボタンをはずし、乳房を僕の口に押し付けるのであった。興奮して体がぶるぶる震えたのを覚えている。疲れたのか先生は見繕いをして立ち上がり早く此処を立ち去るように言った。最後に決して人に話してはならぬと念を押すのであった。

2011年1月9日日曜日

悲惨な家庭ー12

小学3年生の時だった。絵が上手な先生だった、然し痩せ型の神経質な面があり私には常に注目していた。勿論悪い面である。二学期も終りごろであった突然奥さんが亡くなった。僕ら学級の者は皆で弔いに行った。先生は面子も何もかなぐり捨て怒号して居るかのようにわめき散らし泣いた。僕はちょっと可笑しかった。それから2ヶ月もせぬ内に、きれいな女の先生が毎日教室に来て一緒の机で何やらヒソヒソと話をするのであった。其の日は僕ら5,6人は掃除当番で教室の雑巾掛けをしていた。女の先生はスカートをはいて机に向かって先生と話の真っ最中であった。他の男の生徒連中は何やらニタニタしている、とっさに意を解し僕が斥候の役目になり、女先生のパンツの色を確かめに、雑巾がけの振りして机の下に潜り込んだ。上目使いに見ようとしたらキャーッと女先生の声がして僕を指差し何やらわめいた。と同時に此の馬鹿やろうと先生の怒号が飛んだ。此れは仕舞ったと思ったのは後の祭りであった。女先生は恥ずかしそうな顔してサッサと教室を立ち去ったそれからが大変であった。襟首を捕まれ引っ張り上げらた。いきなり理由も聞かれずビンタが飛んできた。先生には僕が何を企んだかすべて知っていたのである。掃除をしていた仲間達は、家に帰れと開放され僕だけが教室に残された。長々と説教され最後に女先生に対する侮辱を親を学校に連れて来て一緒に謝れと言った。此れには困ったこんな事を親にはいえない、黙っていたら2日後母が私を呼び付けヒステリックに怒鳴り卑猥な言葉をあびせて僕を罵った。お前は父親の血を受け継いだ汚らわしい奴だと言った。それを兄は陰できいていたのだ。翌日学校に行くと担任の先生は吃驚した顔で僕をまじまじと見た、顔は腫れあがり目が潰れそうに醜くなっていた。先生は何も言わなかった僕も何も言わなかった。

悲惨な家庭ー11

兄の暴力は家庭の不和ばかりでは無い、私の行状が起爆剤になっている事が多かった。私自身いたずらや小さな悪さをする事は面白くて仕方無かった。また子供の仲間達は私を大将に仕立てる、其の優越感は子供心に最大の勇気を与えた。仲間は最後の責任は私がとってくれるものと思っている。此れは拙いなと思う事も仲間の勢いに押されてしまうのだ。西瓜畑に入り西瓜をひとつ失敬するのはまだましで、腹いっぱい食べ終わると、目ぼしい熟れていそうな西瓜を踏みわって歩く。畑の主はかんかんに怒って先ず私の家にくる、仲間の大将の事を知っているからである。其の内半分以上は私には覚えのない事ばかりだ、他の連中がやった事だと言い張るが聞き入れない。いつも母が応対するがいい加減な交渉で妥協してしまう。それでは私の気持ちが収まらない不満をぶちあけ抗議をするが肝心の事には答えず兄に告げ口をする。そうなると夜兄と寝るのが怖いのだ、晩飯を済ませると恐ろしさがひしひしと迫って来た。どうしようも無い不安につい裏口から家を出てしまった。何処に行く当てもなく裏道を彷徨っていると墓場に向かっていた。気味が悪くなって帰ろうとしたら、冷たい風がすうーっと背筋に走った。鬼の顔が目の前にはだかったからだ。思うに気味が悪い事ぐらいは兄の折檻よりうんとましだと思い返すのであった。お墓の入り口に地蔵を祭った小さな祠がある。そのお地蔵さんの後ろに寝れるくらいの隙間があった。此処なら誰も来ない見つからない安全な場所であった。薄気味悪い石塔が肌寒い風に揺れて今にも幽霊になって私を襲うように感じた。恐ろしくてぶるぶる震えていたが時がたっても何事も起こらなかった其のうちに眠って仕舞った。どのくらい時間がたったのか、目を覚した時は東の空は明るく成っていた。飛び起きて誰とも出会わぬ事を祈りながら家に帰った。家に着くとこっそりと裏の味噌小屋に隠れて寝たのを覚えている。

2011年1月7日金曜日

悲惨な家庭ー10

先生は何でもお見道しであった。三学期が始まって一週間過ぎた、最後の授業時間が終わり皆が帰りだした時、先生は僕を呼び止め職員室に来いと言う、いやな予感がした先生に付いて職員室に行った。先生が机に付くと其の横に立った、すぐさま先生は皆の夏休み宿題帳を取り出した。中から僕の宿題と級長の宿題を選び出した。先生は宿題帳を指差してこれはどうした事かと詰った。どうしたもこうしたもない、級長の宿題を丸写ししたのだ、とあっさり言えば良いをものをどうしても言えない。しばらく黙っていると、頬にびしゃっとビンタが飛んできた。これくらいのビンタは兄の折檻に比べれば何の事はない、此れくらいだったら何ぼでも耐えられると思った。昔は先生が躾の為に小さな暴力を振う事は許された当たり前の事だった。ケロットした顔で立っているなと先生は思ったのか、今度は少し酷く両手で往復ビンタを張ってきた。ちょっとふらっとしたが何の事はない、もっと叩いてもいいよと言わんばかりにニコットして見せた。先生はチョットビックリしたのか、先生までニコットしたこれでシメタものだ。遊ぶのに忙しく宿題は出来なかった、級長に無理に頼んで丸写しをさせて貰った。級長は決して悪くはない、私が無理強いしたのが悪かったと言って此れからこういう事はしません、悪う御座いましたと深々と頭を下げた。此れで1件落着合い成ったと思ったのは大間違いだった。先生は此の件を母に告げたのだ、母が私を叱るのを兄が聞き耳を立てていた。其の晩皆が寝静まるのをまって、兄の説教が始まった。許して下さいこれからは決してこんな事は致しませんと頭を畳にこすり付けて謝るが兄は許す訳はない。彼がするまま耐える他はなかった。ビンタが飛ぶ先生のより勢いが強いのである、頭を物差しで叩く痛いのはどうにか耐えられる事だったが。一番耐えれないのは首を絞められて苦しい事だった。毎回の事ながら体がぐったりなるまで続いた。

2011年1月5日水曜日

悲惨な家庭ー9

夏休みも終わり近くなった。ツクツクボウシが夏の終わりを悲しむように、かん高い声を張り上げている。少しは涼しく成るかなと思っていたが、まだ残暑厳しく夜は蒸し暑くて眠れたものではない。今日も兄貴と一緒に蚊帳の中で横になっていた、兄も寝苦しいのか寝返りばかりうっている。僕も目は覚ましているものの、ウツラウツラであった。しばらくして突然兄が起き上がり、蚊帳を出ると何かを手にして来て横になった。団扇と棒のようだ団扇でゆっくり扇ぎ出した、僕も其の余り風で心地よく眠り始めた。はっとして目をさましたら、兄が僕を叩き起こしたのである。団扇を僕の手に渡し扇げという、暫らくはゆっくりと団扇を振っていたが眠くて眠くて団扇を振れなくなった。途端に棒切れが腕にびしゃっと音をたてた。腕がしびれる程に痛かった痛みに目を覚まし、また団扇を振り続けるのであった。何回か棒切れが飛んで来た、痛さの涙と眠たさを堪える涙がとめどなく流れた。兄がすやすやと眠りに入ったのは、もう東の空がうす白く成り始めた頃であった。やっと開放され眠りに着いた。何時間寝ていたのかもう家族の者達は朝ご飯を食べ終わっていた、母は私を詰る様に顔をしかめ激しく怒った。兄は言ったこんなに遅く起きると後仕舞をするお母さんが困ると言って私を叱咤した。姉達もそれに同調してまあ少し早く起きるようにしなさいと言った。反論も出来ず御免なさいと頭を下げる他なかった。何時もの事ながら、何で私だけが皆から攻撃叱咤されなければならぬのか、気が弱い私の情けなさを悔やむばかりであった。

2011年1月4日火曜日

悲惨な家庭=8

夏休みの宿題をせねば成らないが、毎日の天気を付けていなかった。昼飯をかっ込み組の級長をしている友達の家に行った。彼は生真面目に勉強するので宿題も最後近くまで済ましていた、後は毎日の天気を記入するだけになっている。彼にだけはこっそり僕の秘密を少しばかり話をしていた。僕の境遇に同情してか何かと親切にしてくれるただ一人の親友である。宿題の事を話すとそんな事だろうと思っていたと言った、丸写しに近い問題解決を手伝ってくれた。2時間たらずですっかり終わり、天気だけは毎日忘れない様に付けておけよと彼は言った。夕方にはまだ時間がある、近所の小川に泳ぎに行こうと誘って行った。既に大勢の子供達が水遊びに夢中になっていた。大きな岩がある下は深い淵になっていた。岩はさほど高くは無いその上によじ登り頭から飛び込むのだ。二回目だった足が滑って岩の近くに落ちた、運悪く岩の突起に向こう脛をいやっと云うほど打ち、骨が折れたのではないかと思った。溺れるかと思うほど痛みが走った。やっと這い上がり脛をさすっていると親友が心配してやって来た。歩いて帰れるかと言う、なんとか歩けるだろう彼の肩を借りて歩き出した。ずきずき走る痛みを堪えながら、泣き出しそうになるのを歯を食いしばって耐えに耐えてやっと友人の家に着いた。友人のお母さんが私の脛を見て診療所に連れて行こうとした。私はそれを必死になって断った、兄貴の顔が目の前に見えるのだ。あまりの断り方に彼のお母さんは不審に思ったが仕方なかった。然し私の痛みは酷かった、ひどい痛みを耐えに耐えたどうして耐えきるのか。それは日頃兄貴の暴力に耐えねばならない賜物であった。子供仲間の喧嘩など、年上の悪がきに殴られ蹴られる事など、何の苦痛にも感じなかった殴られても蹴られても立ち向かう。仲間の間では勇敢な度胸者のガキ大将であった。

2011年1月3日月曜日

悲惨な家庭ー7

夏休みが始まった、私はよく母の実家に寝泊りで遊びに行った。従兄弟の私より一つ年下の男の子がいた、その子と遊び廻るのが何よりの楽しみである。このまま此の家に住み就きたいと思う程であった。近くに川幅50メートルぐらいの清流が流れている。今日はその川に従兄弟達私を入れて4人川遊びに行った。その中流に丸い小さな石ころを敷き詰めた様な広い浅瀬ある、漣を立てながら流れる瀬に石でV字型に堰を作り、先に丸い籠をすけて置く。上流 から皆の足で水をかき混ぜ石を投げて魚を追い上げると小魚が籠に入り込む。何回も繰り返し皆が遊び疲れたころには、夕食のたしになるくらいの小魚が取れた。ビー玉遊びや独楽を打って遊んだ。お婆ちゃんはでっぷりと肥えた優しい人であった。お祖父ちゃんは反対に痩せたちょっと怖そうだったが、僕の顔を見ると遊びに来たのか、うんうんと言って頭を撫でて呉れるのであった。従兄弟のお母さんは僕の母の妹である。母に似合わずお人由のとてもいい人である。従兄弟達が嬉々として遊ぶのを目を細めて見ているのであった。幸せいっぱいな生活をしている従兄弟達が羨ましいばかりであった。もう一週間にもなった従兄弟達は宿題を気にしている、永くなっては彼らに迷惑をかける事になる。私の方もあまり永くなったら、兄貴が怒るに決まっている。もっと居たいと思ったが仕方なく帰る事にした。私だって同じ人間なのにどうして境遇が違うだけで、こんなに惨めな思い虐待の苦痛を味わわなければいけないのか、天の神様は私を見捨ててしまったのか、子供ながら嘆き悲しむのであった。従兄弟の父の叔父さんが送ってくれると言うのを断った。もし送ってなど迷惑をかければ、兄貴の怒りはなお一層の爆発をするのである。帰り道は誰も通らない小道を選んで大声で泣きながら 泣きながら帰って行くのであった。西の空には夕焼け雲が桃色に美しく輝いていた。