2010年12月30日木曜日
悲惨な家庭ー6
兄貴と私は何時も二階の同じ部屋で寝泊りしていた。勉強机が二つ並んで兄貴は何時も学校から帰ると此の机にかじりついて勉強していた。私が机に就くものなら色々と嫌がらせをする、下手に反抗は出来ない恐ろしいのだ。然し今日は違う先生から申し渡された宿題がある、ぜひとも遣らなければ先生に叱られる。おずおずと机に向かうと兄貴は、先の潰れた鉛筆を6-7本机に投げ出し削ってからにしろと言った。やっと削り終わって差し出すと、こんな削り方で字が書けるか削り直せと言う。投げ捨てて怒り度いが抵抗した後の兄の怒りを思うと、とてもそんな勇気は出なかった。丁寧に削り終わった頃は手の疲れが酷く字を書くのが面倒くさくなっていた。姉妹達は同じ二階の隣部屋で勉強していた。今日は私がたまに机に就いていたので、ほうー今日は勉強ですかなかなか感心ですねーと言った。すかさず兄貴はそうだよ良く勉強するので、感心しているよと言って私を褒め称え味方を装うのであった。然しもう勉強する意欲は無かった、宿題をしなかった事を先生はひどく叱るだろう。兄貴の暴力を思えば先生の叱りは何の痛さも感じない何の事もない思いであった。宿題はほっぽり出し便所に行きたくなったと言って家を飛び出した。然し何とも後味の悪い兄貴に対する自分の勇気の無さに腹立たしい思いをするのであった。こういう色んな虐待を他人や先生に相談すれば、兄の激怒だけでは済まされない、世間に公になる事である。集落では有力者の父であり、母は高等女学校の教諭、名誉ある家庭の恥を世間に晒す事は出来ない。幼い子供の私にも日頃から教え込まれた家族の教訓であった。そんな世間体を気にする私を兄貴は十分に知っていたのである。
悲惨な家庭ー5
私の家は建坪約40坪ぐらいの二階家で、集落では大きい方であった。一番奥の座敷部屋は周り縁になって、その縁側は奥行き10メートルぐらいの作り庭になっていた。近くに水泉がありそれを取り囲むように、丸く刈り上げた柊があり、つつじの小木が並び皐月があった。3メートルもある枯れ木にテッセンの弦が巻きついていて、7月ごろ青紫色の奇麗な花がさいた。それらの後ろ側に山椒の小木があり、まきのき、橙の木、ほかに広葉樹が数本立っていた。その奥は境界線の塀などはなく竹やぶが覆い茂っていた。その庭には数個の大小の石が配置され、景観を引き立てていた。時々その大きな石を父は自分で配置換えをしては楽しんでいた。その時大きな石を移動させるのに梃の鉄棒があった。その日はその鉄棒を持ち出し一人で遊んでいた。直径3センチぐらい永さメートルはあった、子供には結構重たかった。持ち上げたり振り回したりで汗ばんだ頃、帰ってきた兄貴に見つかった。おお体を鍛えているのかと皮肉を言い、いきなり私の手から鉄棒を取り上げた。どうされるのかと戦々恐々怯えていると、横腹をいやっと言う程鉄棒で殴られた。痛くてうつ伏せに倒れると、鉄棒が上から落ちてきた背骨が折れるかと思った。泣きながら倒れていると、此れくらいでへたばるとは弱虫と笑われるぞ、と言って襟首を捕まれ引き上げられ、其処に立っていろと言った。もう我慢できないと哀願して許しを請うた。それでは最後に此の鉄棒を頭で受ければ許してやると言う、抵抗でもすればもっと折檻が続く否応なしに立っていると、鉄棒を掌に立て此れが倒れるのを頭で受けよといった。観念して目をつむっていた、轟音とともに落雷が頭に落ちた様なショックで倒れた。何時たったか一瞬であったかも知れない、目を開くと兄貴はもう居なかった。前頭部に大きな瘤ができ赤くなっていた。2ー3日頭痛がしたと思う、以後の偏頭痛は此のせいかも知れない。
2010年12月28日火曜日
悲惨な家庭ー4
夏休みが始まったもう気はそぞろ遊ぶ事に胸はワクワクである。いつもの宿題はそっちのけ近所の遊び仲間と今日の遊びの相談である。そううだなー、今日は向山のため池に水遊びに行こう。池は農業用水につくられた、100メートル直径ぐらいの大きさですり鉢状深さは5メートルぐらいある。一番深いところにコンクリートの柱がある、それに幾つかの栓があって必要に応じて開け閉めをする。何年おきかに全部水を抜く、其のときの魚とりがまた集落の人の楽しみであった。私もタブという網をもって魚を掬って来たものであった。今日は水浴に5,6人の仲間でやって来たのだ。ところがもう先客が来ていた、少し年上の連中である。其の中に運悪く兄貴がいた、日頃めったに集落の連中とは遊ばないのにである。最初は少し離れた処で遠慮がちに遊んでいたが、皆が騒いでいるのに調子に乗って僕も騒ぎ出した。気がついて見ると兄貴が横目でジット僕を睨み付けている。これはしまったと思った時は遅かった。兄貴は素早く僕を捕まえぐいぐいと深みに押し込んでいく。泳ぎは達者な方だったので押し込まれるのはたいして苦痛ではなかった。所が一番深いところに来るといきなり僕の頭を押さえ沈めるのである。もがき苦しむとちょっと手を緩め息をさせるまた沈めを繰り返す、殴る蹴られるより痛くは無いが苦しさは口には言い表すことは出来ない程であった、この世の地獄を味わっているのである。息も絶え絶えぐったりなって、彼も疲れたののかやっと開放された。とても泳ぐ事は出来ない、自然の浮力が人間にはある、おお向けに寝そべる様にしてやっと岸に着いた。それを見ていた年上の連中は、止めるでもなく感心して眺めるのであった。兄貴の教育方法がスパルタ式だからこそ、家庭の立派な躾が出来るのであろうと。
2010年12月21日火曜日
悲惨な家庭ー3
家庭の事情は表面的には非常に立派な家庭で、子供は皆学校の成績もよく躾は万全だろうと皆信じていたらしい。私に対してはぐんと評価は落ちるが、そこいらのガキらと比べればまだましだと思っていたのである。兄弟は姉が二人妹が一人と兄貴が居る父母を入れて7人の家族だった。どうしてそんな大勢の家族に兄の虐待を一人も気づかなかったのか、その原因に私の行状があった。当時幼い私には両親の愛情に飢えていたという実感は少しも無かったが、家に居る事は非常に少なかった。学校から帰るとカバンを放り出し、近所のガキ共といたずらや悪さをして歩いた。時には農家の親父らがやれスイカを盗まれたとか葡萄を千切り、さも猿がやってきたように荒らされたと抗議をしに家までやってきた。 其のつど母は自分の給料から何がしの弁償をしていたのであった。そういうときの兄貴の折檻は公然と出来る事をホクソ笑んだ様に見えたのである。お察しのとうり打つ蹴る殴るの暴力、妹は兄ちゃんはひど過ぎると目に涙を湛えていたが、口に出して抗議する事は出来なかった。私は泣きながら耐えに耐え悪かったと必死に謝るが、彼には謝られる事が目的ではない、日頃の家庭内の憂鬱父母の愛情のなさ、彼自身抱えている悩みの吐けどころを私に当たり散らして居るのであろう。狂気の様に暴力を振るう姿は閻魔大王の再現かと思える形相であった。後になって感じた事だが、家庭内の陰鬱さ親の愛情のなさ、母の父に対する嫉妬の激しさは醜い一語に尽きる程であった。兄も其の渦の中に放り込まれ、悩みそして悲しんで居たのかも知れない。兄も一人の被害者であり可愛そうな人であったのかも知れない。
2010年12月19日日曜日
悲惨な家庭ー2
兄貴は神経質なまじめ一方の賢い学生であった。しかしそれは表面の姿であり、私には残忍でしかも暴力を振るう悪魔の様な姿であった。私は時たま悪童達を連れてはいたずらをして遊んだ。そんな事が彼の耳に入ると、躾けといって殴る蹴るは愚か、首を絞め息が切れそうになると少し緩め又絞めるを繰り返す。死ぬほどの苦しみを舐め体がぐったりした処でやっと開放されるのであった。抵抗しようにも5歳もの差がある力の差は歴然たるものがあった。それを家庭の誰かにでも告げようものなら、それは前にもまして折檻はエスカレートするのだ。その恐ろしさは友達や親戚のもの或いは近所のおじさん達にさえ話す事は出来なかった。一度学校の先生に相談した事があった、幼い子供の事説明の仕様がわるく理解できなかったのであろう。あべこべに兄さんの言う事を良く聞き分けて、真面目に勉強すればきっと可愛がってくれるに違いないと諭された。それからは決して誰にも告白する事はなかった。家の中では何時もうつむき加減で内向的な人間になってしまった。しかし其の反動かどうかは子供の私には解らなかったが、集落の悪童達と遊ぶ時の溌剌とした行動、そして行き過ぎた悪戯は集落の悪評判であった。
悲惨な家庭ー1
少年時代と言えば恥ずかしい事ばかりで、話すに耐えない事件の数々で有った。家の事私自身の事
特に私の家庭は特別であったかも知れない。父は当時町であったので町会議員を勤めていた。私達が住んでいた70,80家族ぐらいの小さな集落では父は有力者と呼ばわれていた。母は県立高等女学校の教諭をしていた、当時女学校の先生と言えばは特別に尊敬されていたのである。しかし其の家庭内はいつも陰鬱な悲惨な雰囲気が漂っていた、その原因は父の行状にあった。町の繁華街の裏手に妾宅を構えていた。尊敬されている筈の母は、妾の事になると目にあまる嫉妬を飛ばし激しかった。それは直接妾にではなく子供の私に向かうものであった。私の幼い心にさえもうよせばいいのにと思っていたのである。私自身も父の血脈を受けているのか子供の頃から女好きであった。母はそれを憎んでいたのか、私に向かって鬱憤を晴らしていたのかも知れない。
特に私の家庭は特別であったかも知れない。父は当時町であったので町会議員を勤めていた。私達が住んでいた70,80家族ぐらいの小さな集落では父は有力者と呼ばわれていた。母は県立高等女学校の教諭をしていた、当時女学校の先生と言えばは特別に尊敬されていたのである。しかし其の家庭内はいつも陰鬱な悲惨な雰囲気が漂っていた、その原因は父の行状にあった。町の繁華街の裏手に妾宅を構えていた。尊敬されている筈の母は、妾の事になると目にあまる嫉妬を飛ばし激しかった。それは直接妾にではなく子供の私に向かうものであった。私の幼い心にさえもうよせばいいのにと思っていたのである。私自身も父の血脈を受けているのか子供の頃から女好きであった。母はそれを憎んでいたのか、私に向かって鬱憤を晴らしていたのかも知れない。
2010年12月16日木曜日
ブログ
福岡県筑後市出身、旧八女中最後の卒業、話相手を探している。ブラジルの大地に憧れて、結婚したばかりの妻を連れ日本を離れたのが1955年(昭和30年)であった。農業はやった事無いが商売が主で色んな事を経験しました。ブラジルで出来た友達はいっぱい居ますが、齢を取ると故郷が無性に懐かしくなり、幼年、少年時代のこと色んな故郷で遊んだ思い出、涙が出るほどに懐かしいものです。
2010年12月8日水曜日
ガリンペイロ13
資金つくりにロンドリーナに帰り、借家が1軒売れまとまった金が出来た。バスを乗り継ぎながら2昼夜かかってやっと現場に着いた。小屋がけを手際よくジョンがやっていて、最初からの仲間5人が住んでいた。15人の仲間を新規に探す、日本人の信用がここいらでも発揮し忽ちに集まった。小屋が狭いので別な場所にもう一つ小屋がけをし、10人ずつ住まわせ今日から僕がパトロンになった事を告げた。
前に働いたパトロンに訳を話し、分け前の割合はすべてお返しする事で話がついた。色々と解らぬことがあったら尋ねて来いと好意ある言葉であった。現場は新規の場所に大勢のガリンペイロが溢れそれぞれに胸を時めかせ、活気ある出発となった。我々も各分担を決め仕事を始める事になった。雨も上がり旧場所は政府の吸い上げポンプが稼動を始めた。セーラペラーダの本式なガリンペイロ生活が始まったのである。これから先の物語はガリンペイロ体験記に面白く書いていますので、どうぞ読者になって下さい。色々と本の内容などのご質問もお寄せ下さい。
前に働いたパトロンに訳を話し、分け前の割合はすべてお返しする事で話がついた。色々と解らぬことがあったら尋ねて来いと好意ある言葉であった。現場は新規の場所に大勢のガリンペイロが溢れそれぞれに胸を時めかせ、活気ある出発となった。我々も各分担を決め仕事を始める事になった。雨も上がり旧場所は政府の吸い上げポンプが稼動を始めた。セーラペラーダの本式なガリンペイロ生活が始まったのである。これから先の物語はガリンペイロ体験記に面白く書いていますので、どうぞ読者になって下さい。色々と本の内容などのご質問もお寄せ下さい。
2010年12月2日木曜日
ガリンペイロ12

2010年11月30日火曜日
ガリンペイロ11

2010年11月27日土曜日
ガリンペイロ10
掘り始めて3日目砂利の色が茶褐色になった。ひょっとしたらカスカイリョ(金含有砂利)かもしれないと、ジョンがテストした。紛れも無く砂金があった皆が飛び上がって喜ぶ。雨が降っているにもかかわらず、その砂利を取り上げるのに必死である。カスカリョの層は30センチ程である、隅の方から斜めに50センチ幅で3メートル程走っている。ずぶ濡れになりながら取り上げてしまった。明日砂金をとるための流し台などを作ることにして、小屋にひきあ
ガリンペイロ体験記9
谷間と言っても広い台地になっている。あちこちガリンペイロ達が掘りまくった跡がある。途中で諦めたのか浅い水溜りになった区画があった。周囲の状況からして砂金の層がありそうでだとジョンが判断した。それではと池になった水を汲出さねばならない、道具は小屋からもってきていた。バケツやバッテイヤで3メートルX3メートルのひろさに50センチの深さを一時間あまりでほしあげた。ツルハシを使う程でもない二丁のスコップ二人交代で掘り始めた。幸い雨は小降りで溜まるほどではない、一メートル掘った所で昼食2キロの道を歩いて帰る。昼食を作る間仲間は休憩、手っ取り早く用意し食事は素早く済まし走るようにして戻る。50センチも掘ると小石が混ざった層になった、スコップだけでは掘れないツルハシがいる。4時間かかって50センチ進んだ、午後6時近くになった赤道直下は暗くなるのが早い、途中山道だ道に迷う危険がある早く切上げてかえった。
2010年11月21日日曜日
ガリンペイロ8
炊事係りになったものの戸惑うばかり。一緒に入山した5人のガリンペイロは僕の作るものに慣れていたので問題なかったが、他の5人が食事について不満だらけである。その中の通称ジョゼは日本人に対する偏見もあって、罵倒するばかりか食器を投げつける。その乱暴に腹らわたは煮えくり返り手に持った包丁を突き出そうと思った瞬間、様子を見守っていたジョンがさっと近寄り、前をさえぎって話しかけてきた。何も話はないが突然笑い出し訳もないことを言い出した。おれの危機を救ってくれたのだ。そんなことや些細な事件が何度かあったが、炊事係りは弱いものガリンペイロの不満の吐き出し所なのである。その事を肝に銘じて少々の小言は聞き流しそ知らぬ顔をする事を覚えた。そうこうするう内に10月になった、空は一面に雲が覆い雨季がやって来たのである。一週間もせぬうちに豪雨が雷の轟音を引き連れてやってきた。現場は泥水が流れ込みとても仕事することは出来ない、雨期明けは来年の3月頃である。噴火口様になった現場は大きな池になる、政府が設置している汲出しポンプは全力稼動しても豪雨には勝てない。雨期明けまで全山仕事中止になった。ガリンペイロは三三五五故郷に帰り始めた、しかし帰る旅費もない奴は小屋に居座る。パトロンはそれらを賄わなくてはならない大変である。私も今更帰る訳には行かない、近くに少量ながら砂金が出る谷間がある。連れて来た5人達と現場に行って見ると、何とか仕事できそうだ小屋から2キロくらいだ毎日通ってやってみる事にした。
2010年11月20日土曜日
ガリンペイロ体験記7

2010年11月19日金曜日
ガリンペイロ6
とうとうマラリアに罹ってしまった、ガリンペイロになるには避けては通れぬ洗礼である。仕事するガリンペイロ達と一緒に寝泊りする訳には行かぬ。近所にガリンペイロ達に食べ物を売っている通称ゴールドと言う男が俺の小屋に来い、ハンモック吊って寝るぐらいは何ぼ居ても構わぬと親切に言ってくれた。寝るだけはまだしも毎日の食事も賄って、親切にしてくれ本当に感謝感激であった。毎日保険所まで地を這って通い、7種類の錠剤を口にほおりこみ一週間通った。罹ってすぐに手当てしたのが良かったのか、血液検査も陰性と出てすっかり直った。
翌日ジョン達が働いている小屋に行き、俺の仕事があるのか尋ねて行った。炊事係は他のやつがやっていて働く場所はなかった。それでもパトロンが皆と一緒に働いて居ればいい、分け前は皆と同じ5%で契約してやるという事で、現場で働く事になった。
翌日ジョン達が働いている小屋に行き、俺の仕事があるのか尋ねて行った。炊事係は他のやつがやっていて働く場所はなかった。それでもパトロンが皆と一緒に働いて居ればいい、分け前は皆と同じ5%で契約してやるという事で、現場で働く事になった。
2010年11月17日水曜日
ガリンペイロ5
現場に入ったもののどうやって仕事をするのかさっぱり解らない。元々入山する時ブラジル人のガリンペイロ仲間を5人ほど連れていた、彼らと相談し先ず食べる事、寝ることを解決しなければならない。リーダー格のジョンが5人の労働者を受け入れてくれるパトロンを見つけて来た。条件は食事、住所は無料だが一定の決まった給料はなし、砂金を取り上げた時にその半分をパトロンが取り、後の半分を労働者が分けると言う事であった。こういう言う働き方をメイアプラッサと言う。金が出なければただ働きの働き損である。一つのメイアプラッサのグループに10人が居る、その内訳は一人がツルハシ係り、スコップ係り7人が運搬係で最後の一人が炊事係である。炊事係は一番楽な仕事だが誰もやりたがらない、一番弱い奴で又半分女である俗に言うお釜なのだ。リーダーのジョンはお前は年だし体力も無いから炊事係をやれと言う。ちょっと戸惑ったが自分の体力の事を思うといたしかたなかった。何もお釜はきっぱりと断ればいいと覚悟を決めた。所が仕事を始める矢先、体全身が猛烈に震えだした。マラリアである、幸い保険所があるそこまで地面を這って行った。折角の仕事を失いこれから先の不安とマラリアで一週間以上を苦しみ貫いた。
ガリンペイロ4
セーラペラーダの区域は本来ドウセゼウ会社が持つ鉱区権内である。日本の日鉄が投資経営しているカラジャス鉱山と同区域内である。ガリンペイロが発見したと言え、元々は自分たちの権利がある土地黙ってみているわけにはいかない。後ほどの事件に色々と関係してくきたのであった。然し此の会社は政府も合弁である。下手に取り上げる為の工作など仕様ものなら、反政府混みの暴動に発展しかねない。そこで政府はガリンペイロ達の味方をよそおって、治安や衛生を口実に管理部隊を派遣した。保険所を建て警察署を置き管理事務所を置いた、ガリンペイロ達も他の鉱区の様な無法地帯と違い安心して、働けるので前にも増してガリンペイロが集まり、1年足らずで食料補給や衛生面治安、色んなことに支障をきたす様になった。政府はこれ以上の入山者をとめる為入り口に検問所を設けた。何キロにも鉄条網を設置した。私が入山した時は既に検問所が設置されていた。それを突破するのに日本人と言う利点、先輩たちが培った勤勉と信用を大いに利用させてもらい、いかに自分がガリンペイロ達に貢献できるか、先輩たちには申し訳ないが詭弁を使い、監督官を納得させて入山したものである。
2010年11月15日月曜日
ガリンペイロ体験記3
私が体験したセーラペラーダ金鉱は1988年かと思うが、此処の農場で働いていた農夫が偶然に発見したものである。一旦金鉱が見つかったと言えば忽ちガリンペイロがおしよせる。ある程度の期間は秘密にして置きたかったのだろうが、発見したもののその採取法が解らない。近くの町、近くと言っても160キロ離れたマラバ市に行って、採取方法を知っているガリンペイロを探しているうちに噂は忽ちに広がり、何万人と言うガリンペイロが集まった。噂どうりザクザクと金塊や砂金が出た。一番大きい金塊は60キロを越したと言う、世界でも一番大きいといわれている。現場から500キロぐらい離れたアルタミーラ市に住んでいた日系のササノさんは、いち早く現場に駆けつけ800キロちかい金を取り上げたと言う。現在の価格で1キログラム5万ドル(400万円)概算で32億円である。一躍成金王様皆の羨望の一人になった。他に500キロ200キロと取り上げた数人のひとを聞いている。私もその内の一人になりたいと、飛び込んだのが1989年のなかばであった。
2010年11月14日日曜日
ガリンペイロ体験記二番
2010年11月2日火曜日
はじめまして一番
私はブラジルに住んでいます。今日からブログをはじめました、宜しくお願いします。ガリンペイロと言う言葉をごぞんじですか、これはダイヤや金を掘る人のことをいいます。この事について私はブラジルのアマゾンで6年間探検を含め経験や、実際にダイヤや金を掘りました。その経験談を本として発行しました。すでに本屋さんでは売り始めました、どうか読んでください。
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